世界遺産だからといって特別視するのはどうでしょうか?

安房の風景

ようやく屋久島遠征から実家の大阪へ戻って参りました。
屋久島登山記の前に、敢えて結論からということで、訪れて率直に感じた事をまず書かせてもらいます。

確かに、屋久島は皆さんが憧れる「一度は行ってみたいトコロ」であることにはマチガイ無いです。しかし、実際に島の中で暮らしている人々は「世界遺産」の有難みを享受しているのだろうか? と、いうか本当はアリガタ迷惑なのではと、ボクの心の中では逡巡しています。
島外の人から見ると、「素敵で美しい島」かもしれませんが、屋久島に生まれ育ち一生そこから出ない人は、ボクらのような都会に住んでいる人間のような便利さは本当に享受出来ません。実際、電気代は本土に比べ高いし、ブロードバンドもごく一部の地域しか出来ないそうです。おまけに、情報だけはテレビやネットでいろいろ入りますが、いざ欲しいものを手に入れようとなると時間がかかる。これが現実です。
何でこんなことイキナリ書くかというと、島に上がって最初の日、バス停で待っていたトコロに高校生とおぼしき野球少年がやって来て話しかけられて宮之浦岳に登りに来たと言うた後、「屋久島の何処がいいの?」と聴かれて正直返答に窮してしまった自分がいるからです。
ボクはしばらく考え込んでしまい、「そうやなぁー、都会と違うてゆったり時間が流れてるし、セカセカせんでもすむからなぁー。」と答えるのがやっとで、それから少年はポツリと、「島はなーんにもないし、ものはすぐ手に入らない。山なんか一回も登った事無い。都会の方が便利で楽しい。でも島の外に遊びや買い物等で行くのはお金も時間もかかるから、、、。」と言うのでした。
それもそのはず、多感な年頃の高校生なら、いろんな情報だけが先行して入って来て、楽しそうに見える文明社会により一層憧れだけが募る。自然環境豊かだけでは暮らせると思うのはボクも含め都会人の悲しい性だと思います。
と、いうか、人間自体が自然の厳しさと対峙するために文明社会を築き上げ、より豊かに暮らせるようにと科学や文化を発展させていったのが人類そのものの歴史やと思います。その過程で、今科学技術の方が先行し過ぎて、自然を破壊しバランスを欠いた状態になっているのが現状であると私は考えてます。
3月27日の記事の岡本氏の話ではありませんが、自然と対峙しながらも技術的な面での研究にも余念が無いと書いたように、要は自然の力と文明の利器をバランスよく取り入れることが大事なのではと思います。単なる「エコロジスト」では本当に人間的に豊かな生活が享受出来るかといえばボクは疑問に思います。それと、日本の美しい風景は屋久島に限ったもので無いし、ボクの生まれ故郷に近い同じ世界遺産の吉野・熊野・大峰なんか自身の山登りの原点といえる素晴しいトコロだし、東北の飯豊・朝日連峰なんて世界遺産では無いけれど、非常に秀悦な山々だし、世界遺産の有無に関係なく日本全国。いや世界の自然環境に優劣はありません。世界遺産で無ければ野放図に開発しても大丈夫なんて考えていたら、正直その人の心を疑いたくなります。

すぐには答えのでる話ではありませんが、皆様も一度は自然環境と文明社会の関係についてちょっとでもエエから考えて見るのもいかがでしょうか?