他者に依存しきるのではなく、自分で生きる道を考えないと依存された側も倒れてしまう。

今、NHKで『地域の医療はよみがえるか〜夕張からの報告〜』を見てました。
私がつい最近ある人と討論したのですが、「消費者という立場なら日本ワインを楽しむことに徹することで充分、その一線を越える必要性があるのか?」という意味のことを言われたのですが、ボクは違うと思う。「楽しければそれでOK」は「消費者」という免罪符の一言で傘に着て庇護して貰ってる特権階級的な意識に繋がりかねません。
医療という異分野ではあるけれど、今日本のあらゆる現場で、施しの名の下に他者(この番組の場合、医者や薬)への依存が進み、生活すらままならない病人がかえって増えて自治体の負担も増えていたという縮図がかつての夕張なのです。
本当の「施し」は、施される側も自律を促すもので、それは単に突き放すのでは無い。そのためには、環境を整備しつつ、施される側もリハビリでトレーニングし「生きる」実感を持ってもらうことも必要で、そうでないとただ「生かされる」だけに終始してしまうのでは無いのでしょうか?
医療と日本ワイン、コンパラで比較するのがナンセンスと言われるかもしれません。でも、「生活する」という原則論に立ち返ると、分野違えども人の営みを支える「衣食住」の「食」にワインが関わっているという点では根底は一緒だと思う。そして、今日本では様々な領域で原則論がなし崩しになってます。
だからボクは、単に飲まれる(飲まされる?)のではなく、能動的に親しんで飲んで頂く為にも「飲み手も勉強すべし」というのが持論です。そうでないと、真摯な「造り手」が一生浮かばれ無いと思う。
(「可愛い子には旅をさせろ。親はつろうても我慢せな」という高田直樹氏の言葉を思い出します。)
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上から目線と貴族主義だけではこの世の中渡っていけませんよ。−2007年9月19日小生記事