横並びと言うかステレオタイプ的な発想にはどうも、、、

前から小生思うのですが、「関西人」に対する世間のステレオタイプ的見方に関してはあんまり好きやありません。「関西人」も、思慮深い人・大人しい人もいれば、「いちびり」(単なる「おっちょこちょい」では無く、どうも憎めないとかのニュアンスも含みます。)や「けったいな」(これも、「変わった」だけでなく突拍子も無く愉快なという感じかな)人もいます。
関西人も、京都・大阪・神戸で全然ちゃうし、大阪の中でも摂津・河内・和泉、そして市内の船場(←「あのお店」は論外で、人として単にずれた行動してしまっただけのことです・苦笑)の商人文化、とそれぞれ個性を持っています。
一時期、『KY』という言葉が持て囃されて来ましたが、これも「空気読め!空気読め!」と強要されてるみたいで、あんまり好きやありません。むしろ、「空気読めない人」が斬新な(決して「最先端」で無いことに留意せんといけません)アイデアを成功に導いたり、破天荒な人生やけど芸に関しては一流という場合があります。ただ、人間としてソリが合うとか迷惑掛かるというのはまた別問題なもんで、、、。(苦笑)どうも、マスコミは言葉尻からマッチポンプ的にわぁっと持ち上げる一面的報道ばっかりなので、辟易してます。
『KY』の語源になった人に関しては、単にそういう器で無かったのに加え祖父さんの幻影を追っかけてただけで、だから短命に終わったと、喧騒が去った今にして思えるのです。
人間誰しも機敏に何でも読めるのなら、それは逆に人の心を何でもお見通しで却って気持ち悪いです。コミュニケーションは、常に穏便にという訳にはいかず破綻もあるけれど、互いの個性を尊重しつつも橋渡しをするためにあるもの、と小生は考えています。
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空気を読むな(「池田信夫 Blog」より)

「初めに結論ありきで、歴史的事実におかまいなしに、朝日=岩波ムラと産経=文春ムラにわかれて罵倒の応酬が続き、論理的な論争が成立しない。」

という例が出されてますが、小生は、論争の場において、細かな論拠や客観的データーでは無く、単なる思い込み(「主観」ならまだしも、それも単純な)とか感情的なものから来る所より話を持ち出されると、話の続きのしようがないことを最近往々にして感じています。(淘汰が激しくサイクルが短いゆえに良い意味での「余裕」が無くなっている世の中全体の風潮もそれに拍車を掛けていると考えてます。)
頭でっかちな理屈も願い下げですが、単なる感情の発露も困ります。(アーティストが「『情動』(←感情で無い所に注意)の発露」から産み出す作品も、感情のぶちまけでは無く何か「計算された所」があるからだと思います。それが偶発的な産物であっても、、、。)
理性と感覚のバランスを保つ事は、「生きる」上での永遠の課題でしょう。