だから「袖の下」が好まれるんです。

時代劇で「おぬしも悪よのう〜」といって小判が出てきて、それから悪代官とか悪役を裁く「ヒーロー」が出るというのはお約束のシーンですが、こういう背景があって日本では本当の意味での「大人の法治国家」にならず、なんでもかんでも規制するのが普通に思えるようになってきたのでは?
官製不況を生む「合理的バイアス」(「池田信夫 blog」より)
規制だと、本当に木に竹を接ぐようになってしまうので、現実問題次から次へと新しいことが出てきた時に対処するのが難しくなってしまいます。その都度「ヒーロー(←その本人が本当に「正義」かどうか判断つけられるかという保障が無い。)」が出てきてバッサリは見ていて気持ちがエエかもしれませんが、それでは場当たり的な対応に終始し一貫した方針が貫けない。お金も時間も無駄使いするだけ。
よくこの手の論議になると、規制緩和を批判する人は「じゃぁ、対案を出せ!」と息巻いて議論が先に進まないのですが、、、。(それに、そういう議論は疲れるんですよねぇ〜。苦笑・「対案を出せ!」と言う人に限って目の前の現実に対処出来ず、右往左往している滑稽な光景がよく見受けられるもんなぁ〜。ハァ。
対案を出すのは条件闘争的に良いのですが、根本的な解決にならない。長い時間かけてでも精神的にも論理的にも一人一人が「大人の対応が出来る」ように変わっていくことが求められている。率直にそう感じます。
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(「ITmedia News」より)