離れたからこそ俯瞰して見え、そしてより一層想いは募る。

故郷は遠きにあっても、育ての地だけあって決して忘れられません。
だからこそ、離れた地でこのように真実が伝わらないことに対し、時折もどかしさを感じることしきり。
他の地域の人たちには、やっぱり大阪府の財政問題は伝わっていなかった
(「昨日の風はどんなのだっけ?」より)
今かように、自身が育った地の事を客観的にどのように見られているかを自覚しなおかつ真実を伝えたいというのは、その現場でまさに居合わせている人なら大なり小なり誰しも想うことです。事実を正しく理解するためにも、受け取る側が単に外面からだけで判断するのでは無く、離れていても肌で感じようとする探求心が無くてはならないと考えてます。
ネットのお陰で手軽に情報を集められる分「肌で感じる」ことの重要性をともすれば見失いがちですが、逆にネットだからこそ遠くてもその気になれば真実も見据える事が出来るはず。
リアルな状況を自ら足を運んで実感しつつも、時にはマクロにネットから見て俯瞰する。それが、混沌とした「今」を、ラフティングの如く単に流れに身を任せるだけで無く局面局面で能動的に働きかけて溺れずに泳ぎ切るために必要な事だと改めて痛感しています。
トラックバックを頂いたtoronei氏にはこの場を借りて感謝します。有り難うございました。)
○関連記事
大阪府と大阪市は今の日本の現状のある意味縮図(小生2008年5月15日記事)
閉塞感に正面から向き合うことこそが僕等の責務(小生2008年4月17日記事)


(追記:2008.5.20)
「『文化』はココロの器」なのは理解できますが、「メディア扇動」による「ポピュリズム」では決して無いことを承知して欲しい。上記リンク先のtoronei氏のBlogにてかねがね指摘されているように、文化人・知識人とされる方がマスコミの報道からではなくもう少し現実を肌で感じて大阪の現状を書き記して欲しいと思います。この記事も、「『浪花節』で文化を守れ」と唱えているに過ぎないでしょう。
「数値目標」が判断を誤らせる
日経ビジネス オンライン・「伊東 乾の『常識の源流探訪』」より)
この記事中にて

このコラムで私は「ヒトの意思決定は情動がつかさどる」という生理的事実を幾度も紹介してきました。ですが今回の例ほど、そのポピュリズム展開が顕著に見えたことはありませんでした。

と書いていますが、それは大阪府民がそれに対してどう反応しているかを現地で良く見定めて書き記しているかは大いに疑問があります。それと、府民の生活を第一にする以上優先順位をつけて残すべき所と切るべき所は明確にし、そうして財政が豊かになってから文化事業の復興に手を付けるという捉え方は出来ないのでしょうか?
単に「文化」を切り捨てるといった一面的な見方ではなく大阪府民の現状を良く捉えた上で記事を書くということを、「Webサイトという公の場」で書く以上責任持って行うべきでしょう。伊藤氏が仰る、「『情動』が判断を鈍らせることもあります。」に氏自身が「文化事業を守れ」の名の下、「ミイラ取りがミイラ」の如く囚われていると感じざるを得ません。