研究家の枠を超え多彩なセンスを持つアーティストとして功績を残したフィールド・ワーカー、田淵行男。

実は、先日の安曇野・白馬訪問の翌日(11月24日)に記念館に立ち寄っていたのですが、諸事情で書きそびれ継ぎ足すのもバツが悪かったのでどうしようかと思っていた所に「経済危機・第2幕」が降りかかって来たので、敢えてここで書き加えることにしました。
その、フィールド・ワーカーとは田淵行男(1905年〜1989年)。訪れた24日には『企画展「写蝶の世界〜田淵行男の細密画〜」』が展示されてました。以下はその展示時に掲示されていたキャプションから小生が抄録として起こして、いきさつをまとめてみたものです。
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若き頃から蝶の生態に興味を持った田淵行男は、当時(戦前)図鑑が高価でとても手に入るものでは無かったため、自ら観察し・我流で絵を書いていたのです。「手に入らなければ自分で描いてしまえ」とやってのけるところに、その開拓精神が垣間見えます。
後に、第二次世界大戦に突入して戦況が悪化した際には安曇野疎開し、その自然に魅了され終生まで過ごすのですが、とはいえ、荒廃した戦後に何に生きがいを求めるかで迷いを生じていた処に、殆ど知られていなかった高山蝶の生態を探ることに活路を見出し、やがて近隣の北アルプス始め様々な山へ足繁く通う様になります。
実は、戦時中日本の領土が列島だけではなく大陸や台湾まで拡大していた頃、田淵行男は純粋に学問的な興味で大陸の領土も含めた全ての蝶に関する本格的な研究に没頭することを目指していた様です。(手記等に残されていた)しかし、その夢は挫折。荒廃した戦後の現実に戻りふと想を馳せ、未踏の領域である『高山蝶』へとターゲットを転換、一人でも可能である地道なフィールド・ワークに活動の場を移したのがことの真相です。
だがその転機がきっかけとなって高山蝶の生態を追う中で、単に成虫だけではなく幼生期から食草に至るまでの細密画を仔細に描き続け、その過程で、山岳写真家としてもデビュー。実践的なサイエンティストからアーティストと多彩な才能を発揮して、貴重な記録を多く後世に残して行きました。
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田淵行男の作品は、以前東京都写真美術館でも開催された展示会でも拝見しています。昔、小生の父が氏の写真集を一冊所蔵していたことが発端です。(実家にはその写真集が今も残っている。)
その歩みを振り返ると、蝶類全般から『日本の高山蝶』へと一見領域は狭くなったかのように見えますが、未知の領域でしかも調査が困難なフィールドです。歴史の移り変わりを転機と捉え、元来持っていた柔軟な発想・自然に対する愛情や蝶への興味を基に、フィールドを転化させて昇華して行き、そしてアーティストとしての才能を開花させることにも繋がったのです。旧来の価値観が覆された状況にも関わらず、転機と捉えて自らの枠を拡げたことと、スケールの大きい姿勢を保ち続けてきたことには驚嘆させられます。
戦後の荒んだ状況に置かれても無用に振り回される前に地に足着いた道筋を見定め、決して華美なものでは無く、静謐でありながらも豊かな一生を送った田淵行男の功績とその経歴はどの時代にも通じる普遍的なもので、見つめ直して然るべきものではないのか?
今日改めて振り返ると、何か学ぶものがあるように思えてなりません。