お世辞にも「木に竹も継いでません」(苦笑)

世間で生きて行くのに必要なことに対して注意を払うに越したことはありません。いくら何でも、ブドウやワイン・農業ばかり見ていて、「ブドウ馬鹿」「ワイン馬鹿」「農業馬鹿」では社会性が失われます。
週刊ダイヤモンド2010年2月20日号今日はふと立ち寄った書店で、今週発売の『週刊ダイヤモンド』を拾い読みして購入。何かとお騒がせの年金の記事で結構参考になります。一通り読んで思ったのが、制度設計が「かゆくない所まで手が届く」程の綿密なものは一見素晴らしく誰もが満足出来ると考えがちだが、前提としている条件が崩れ去るとその根幹に矛盾をきたし、次第に収拾がつかなくなるという皮肉です。「右肩上がり」の状況の下考えられてきた年金制度が、今の状況に相応しいかは甚だ疑問。だのに、それを必死で取り繕うとしているのは、太平洋戦争末期の大本営とだぶって見えます。(まるで、どこぞの話と似かよっているかの様ですね。)それと、これほど複雑な制度では年金を貰う本人はおろか、制度を運用している役人すら全貌を掴めずちょっとした事務処理も覚束無い(かくいう役人本人もその制度の下にあるのです。役人自身苛まれてるかも?)。これでは、各人の一生に関わる制度として最大公約数の「信頼」すら得られるのが困難でしょう。
これは年金制度に限らないことですが、制度の根幹となる部分は長期的思考でシンプルに考え、時代の変化に応じて各々の裁量にて細則を定める方が望ましいにも関わらず、どうしても日本では(変に頭が良過ぎるせいか?)『完成形』をすぐに求めたがります。かように、日本では綿密なのが齟齬をきたして収拾つかなくなるというパターンの多いことが往々にして見受けられるのですけれど何故でしょうか? 思わず自問自答してしまいます。