「言葉で教える」ことの重要性

昨日は出先でワインの事で色々話しが出来た。
話題で盛り上がり、さぁ日本戦と意気込み帰って見たら…

まさかの敗戦

先日の歓喜は何処へやらのお葬式モード。

一貫性の無い場当たり的采配が、前回はある意味まぐれ当たりで、今回はそれが外れた格好。
納得のいく敗戦の形では無かっただけに、多くの者がガッカリした事だろう。

しかし、冷静に考えて見るとかつても良く繰り返された光景の「デジャヴ」であって、今に始まった話ではない。

昨日帰った後で、メッセンジャー通じてある方とやり取りさせて貰ったのだが、その時のことを思い返しても、

何故日本は「場当たり的解決策」にしか活路見出せないのか?

と思うのだが、昔から頭の中にあるのが、叙情的に過ぎるがあまりに、言葉できちんと論理的に伝える事、そして『教えると言うことは何か』を蔑ろにされているのでは?と言う私の仮説である。

昔の職人気質での“人の技盗め”、あるいは“以心伝心”では、空気読むことが知らない間に多くのウェイトを占めていると思うのである。

それと、言霊信仰的なのがやはりあるのか、叙情的な想いを載せようとせんがために技巧(テクニック)や言い回し(レトリック)には多大な注意を払うが、論理的に伝えようとの労力や習得に対しての注意はどうしても後回しになっている嫌いを感じている。

それは、リアルタイムで目の当たりにした、Wikipediaの「ドーハの悲劇」の項を読めば、痛い程分かる。
ja.wikipedia.org


選手のテンションが上がりすぎて伝える事がままならなかったことや、文中にもある“正しい試合の壊し方”を教える事が出来なかったことなど、枚挙にいとまがない。

だからこそ正しく「教える」ことには、空気や雰囲気だけでは無く、論理的な帰結も伴わないと特に今の世代は納得しないと私は思う。人に教える時、そうした持って行き方を意識的にトレーニングしない限り、中々身に付かないと思うのである。

そうして、最近観た映画『シグナチャー』を振り返ると、浅井先生が、主人公(安蔵氏)に「プロヴィダンス」の事で興味を持つ投げかけの場をこしらえ、そしてそうした場所へ導いただけで無く、課題として提示し、どのような施策を持てばこのようなワインを創り出せるかまでを結果主人公に考えてさせるだけで無く、実効に落とし込み、花開くことが出来たのだと改めて思う。

〜投げかけの場の提供と課題の提示〜

コレが論理的な帰結も伴った、人に教える一つのやり方としての答えなのでは?
そして、浅井先生が文章を書くことを大事にしていたことは、そうしたことへの意識的なトレーニングの場を自分に課していたのでは?と想いを馳せている。

※写真は、『シグナチャー』公式サイト
https://signature-wine.jp/

からと、FIFA公式サイト
https://www.fifa.com/fifaplus/ja/articles/japan-v-costa-rica-match-review-ja

からの引用。