なぜ僕は、“ドサ回り”を続けるのか・・・。

久方ぶりに、山梨に行って参りました。

過去の自身の記録を見たら、2016年の2月下旬(しかも日帰り)だったので、宿泊してじっくりとなると感慨深いものがある。


さて、昨年から独立し事業を起こしてからは、出来る限り他産地に足運ぶようになっている。かつて、小生はこのBlogで日本のワイナリーを・産地を訪ねて来た記録を綴り、出来る限りのことを調べ・勉強して行った。その頃からも情勢が変わったというのもあるが、やはり「現地に行かねば分からん」という性分も、相変わらずあるのだとも思っている(笑)。

そこ(産地)には、実際に足を運ばなければ見えない物が多くあった。
もちろん、メディアで多く取り上げられる様になり、日本のワインへの注目度が上がるにつれ、「情報量」は増えていった。
しかし、中々語れない・文字に出来ない情報もあったりもする一方で、メディアでは量れないものがある。

「現地の雰囲気・風、そして実情」

文字では書き表せにくいだけでなく、その肌感覚は決してこうしたWebやSNSが発達した今でも決して完全に伝えられるものではなく、リアルなものはやはり現地で無いと知り得ないことが多い。いやそうでなければ、人間という生き物である以上、サイバーマシンでは無いので「地に足ついて」生きていく他無いと私は考えている。

“ぶどうを造る”ということは、その地の風土・気候というものに応じて対応しなくてはならないので、私の在住する大阪で他産地の事例をそのまま持ち込んでも上手くいくとは限らない。それに、地域の社会的実情・歴史的経緯という別の側面や、経済的なところも勘案しなくてはならないことから、その産地の事例≠他産地の事例なのが普通でイコールとなることはそうそうあることでは無い。これは、ぶどうに限らず、農業一般にいえる事だと思う。しかし、他産地の事例に学ぶことは多く、同じぶどうを育てるのでも、なぜかの地ではその様に取っているかを知ることにより、ぶどうを造ることの大事な「本質」に少しでも近づけるのでは?と考えているに他ならないからだ。

それと、これはワインの愛好家や一部の業界関係者の方にままあることだが、“テロワール”とかに代表される様な「パワーワード」の枠の中でしか捉えられない人だと、実際の農業や経済・歴史などの視点を勘案しないでその枠内でしか話が拡がらず、異なる価値観や新しい事例・発見が現実にあっても中々認めない傾向がある。そうなると、話が噛みあわず正直いたたまれない気持ちになる。
そうしたフィルターを通さず見ることで、ワインの造られてる「現場」を始めて理解出来るのではと感じている。やはり、ワインはもの造りという側面も少なからず存在する以上、技術をフラットに見るところから、こちらもぶどう造りと同様、ワインを造ることの「本質」を少しでも知り得ることが出来るからだと考えての所以である。


もちろん、こうした小生の考え方が全て正しいかどうかは分からない。
人によってものの見方はさまざまなので、これが絶対とまでは言い切れない。ただ、かつて「ものづくり屋さん」で研究者の端くれであった私は、ものの本質を見ていきたいという想いがより強いのだと思う。だから、上記の様な考えに至ったと、今までの自分の歩みを振り返って考察している。

それと、故郷・大阪の枠だけで自己完結していても、外の枠・世界では通用しないこともある。あるいは、時代の変遷で価値観や考えが移り変わることは、古今東西問わず逃れられない宿命かもしれない。
そうして時に、外に全てを準拠してしまい自身を失っては本末転倒ではあるが、不必要に流されることなく良いものを参考にしていくことは悪いことでは無い、いやむしろそうしたことを取捨選択して血や肉と化すことは知識のアップデートに繋がり、自身や周囲にも良い影響が出るのでは?と考える今日この頃である。


「旅」というものは、いろいろな点でエネルギーを使う。
純粋な意味での「エネルギー」だけではなく、経済的にもだし、自分の知らない土地へいこうとする動機・モティベーションなどといったところでも気持ちを使うので、大変なこともある。
でも、身体と気持ちが動く限り、“ドサ回り”が出来ればいいなぁと、今回の山梨遠征で改めて心に刻み込まれたのであった。