『日本の自然派ワインの現状をどう分析していますか?』の読後所感

ようやく、目を通すことが出来た。

一般社団法人・日本ソムリエ協会発行の機関誌『sommelier』191号(2023年3月号)に掲載された、『日本ワイン紀行』でお馴染みの小原陽子さんによる、メルシャン株式会社・安蔵光弘氏へのインタビュー記事を遅ればせながら拝読いたしました。
長文になってしまいましたが、元化学屋さんの私なりの所感を記しておきたかったのでお付き合いの程を…。

既にこの記事は、発行された3月の時点で他の方のFacebookの投稿にて紹介され、ご存じの方も多いと思います。結構反響もあったのではと、想像しています。
協会員ではない私は発行直後読むことが出来なかったが、幸いにも国立国会図書館の「遠隔複写サービス」の制度を利用して入手可能であったことから、取り寄せした次第である(時期が今頃になったのは著作権上の取り決めなど、国立国会図書館の複写の規定によるため。 ※ 1 )。

安蔵さんの平易で的確な説明と、小原さんの解説のお蔭で、化学的なお話も含めどんな方にも理解しやすくまとめておられる。
協会員で購読可能な方は改めて再読されることをお薦めします。周りにソムリエ協会所属の方がおられましたら、拝み倒して協会誌を借りて、目を通すことが出来たら幸いである(借りれたら、ワインでも奢るなり何らかの返礼でもしましょう。笑)。
もしくは、図書館に有ればありがたいですね。

さて、本題はここから。この記事を読んで、小生は色々と考えさせられた。
日本のワインを取り巻く環境はここ十数年色々と変わって来たが、ちゃんとした「産業」として成り立っていくには諸所に課題が残されている。

その課題については多々あり複雑に絡み合っているので、「どれだ❗️」とは一概に言えない上に、一朝一夕に解決出来るものでも無い。加えて、こうした現状から来る未成熟な市場ゆえの、ややもすれば「けったいな価値観」がどことなく空気の様なものとして漂っており、元化学屋さんである私としては腑に落ちない所も散見される。

そうした空気感が醸成されてしまい、今回取り上げた記事の中で指摘されている問題点に繋がっているフシがあるが、小生なりの考えを一つだけ言わせて頂きたい。

それは、日々モノが当たり前にあってその出来るプロセスが見えづらくなったこのご時世、「技術」が普段の暮らしの中でとても大事なものだという「有り難み」を実感出来ないままになったのが、そうした空気感の一因なのでは?と考えている。

私が以前一緒に働いていた後輩君(彼は大学は出ていないのだが、最近ある研究所に期間雇用で働いていたぐらいの優秀な人材で、ワインに関してはもちろんのこと様々な学びに貪欲。でいて、憎めない「いちびり」なヤツである。笑)が、昨年ある時こんなコトを言ったのである。

「料理と一緒ですよ。生の肉やお米、お野菜とか丸のまま差し出されても口にすることが出来ないじゃないですか。美味しく食べるには『手をかけなければならない』のと同じですね…。」

当時喋ったセリフそのままでは無いが、要はこの様な意味のことばであったと記憶している。
ごく真っ当で当たり前のことだが、本当に言い得て妙だと感じ、私自身気付かされるものがあった。

人間も動物ではあるが、他の動物の様にそのまま草木ないしは獲物を食べてもOKな強靭な胃腸を有していない。
切って、熱かけて、必要に応じ味つけて…など基本的な「技術」を施さない限り、生命活動の基となるものを得られないのである。
いや、もっと言うと「調理する技術」を身につけたからこそ、人間の食生活が成り立っている。人が口にするものである以上、もし正しく調理が出来ていなければ、お腹を壊したりするかもしれないし、場合によっては命にも関わるかもしれない…。

野生の動物でも、食物を得るのに工夫をしたり、あるいは消化器官に特殊なものが備わっていたりする。
もっというと、
「糖分をアルコールに代謝(異化)する仕事をして、生命活動に必要なもの(※2)」
を得ている酵母君は、人間が徒手空拳では逆立ちしても出来ないこと(笑)をやってのけているのである。

しかし、酵母君が機嫌良く働いてもらうためには、環境が整わない限り無理である。そうした環境を整えるのがまぁ人間なのだ。
文中では「自然派と不自然派(笑)」とあるけれど、そんなことよりも
 酵母が引き起こすアルコール発酵を通じてエタノールを得る」
というどちらの立場をも超えた永遠の真理で僕たちはワイン、ひいてはお酒をこしらえている。
後者は機械やなんらかの技術等で人間の肩代わりになるようなものを使い、前者は人間そのものが手をかけるといった違いだが、やっていることは両者とも一緒で、とどのつまり何らかの形で「手を入れて環境を整えない」限り、我々はアルコール飲料を口にすることすら出来ない。
極論言うと、そこをしないまま出来るというのは、ある意味自然に対する冒涜の様なものかも知れないと私は思う。

ぶどう造りも一緒である。
機嫌良く育って、美味しいぶどうを食べれるように、あるいはワインにしたりするには、何らかの形で「手をかける」ことをしないと収穫出来ない。
泉の水の如く、勝手に湧いて出ては来てくれないのである。気合いやお気持ちで造っているのでは無い。

そうして冷静に考えると、技術というのは、大層な科学技術を駆使したり、高度な職人芸を施すだけとは限らない。
日常生活の中で、ちょっと「手をかける」のも技術のうちである。
加えて、科学技術は、自然現象を観察して理論で体系化したもので、決して自然と対立するものでは無いことを、元化学屋さんの私は声を大にして言いたい。

わたしたちの日々の暮らしの中にも、自覚しないところまで「技術」というものは深く根づいている…。出来上がった目の前にある商品は、色々な人の「手」により様々なプロセスを経て形となり、届けられている。皆さんもそんなことを考えるきっかけになればとも思っている。
自身もぶどう屋さんとして、素朴なところから技術を積み重ねて行かねばと思うことしきりである。

そして、このインタビュー記事を紙に穴が開くほど(笑)読んでもらえれば、元化学屋さんで、研究屋さん・技術屋さんの端くれだった私としては嬉しい。
(お二方からは了解も頂いての投稿です。改めてこの場を借りて御礼申し上げます。)


(※1)
国立国会図書館の「遠隔複写サービス」についてはこちらを参照のこと。
https://www.ndl.go.jp/jp/copy/remote/index.html
複写サービスに関しては、「著作権にかかわる注意事項」を留意の上利用されたい。
https://www.ndl.go.jp/jp/copy/copyright/index.html

(※2)
“ATP(アデノシン三リン酸)”のこと。人間も含め、全ての生命活動で必須となるエネルギー源の物質。ちなみに、人間はアルコール発酵ではなく呼吸の過程でATPを得ている。