技術の進歩でモノや情報が溢れても、消費する時に手に入れる対象と向き合い・判断するのは消費者自身。

船場吉兆の正式廃業が公になりましたが、以前2008年1月16日に記した記事で指摘したように「食への審美眼」が薄れていることが問題の根っこにあるのではと考えています。
イージーゴーイングになったことをいいことに、丁寧に教えることをしなくなったし、また誰しも受け身になるばかり。それもその筈、「最近の若いモンは、、、」と嘆く前に普段の生活にて大人が頭を働かせたり教えるのに心砕くことを避けているのだから無理もありません。第一、「食育」なんてスローガン掲げないといけない状況に対し、どうも倒錯している感がぬぐえません。(「フードファディズム」が起こるのも然り。)
流通が進み通信販売が当たり前になっても、リアルな「モノ」を手に入れる買い物という行為において目利きは欠かせないものですし、沢山物が溢れていても「あって当たり前」では無くどのように造られ・手元に来ているかを教えない限り有り難みは実感しろと云っても無理な相談です。そんな訳から、産地の偽装も・食べ残しも使い回したのも、ブランドの名前だけを過度に追い求め・余るほどなのに欲求だけが先行する消費者心理の裏返しで、船場吉兆に限らず最近頻繁に取り上げられる食品スキャンダルは有る意味消費者への警告で、船場吉兆を晒し首にして気炎を上げてハイそれでおしまい、となって以前取り上げた白骨温泉の例(記事は2008年4月28日5月8日5月12日の3回)の如く闇に葬り去られてしまう懸念があります。
かつて紹介した京都の酒屋さんが書き記しているWebページでの文章を読み返し、種々の食事を楽しむことを単なる『贅沢』と解釈するのでは無く絶好の機会と捉えて有り難みを肌で感じ取ることがいかに大事か、そしてもてなす側も単に上から目線で胡坐をかくだけでは無く『矜持を持った正しい敷居の下げ方』により理解して貰う姿勢を貫けるかという二点は、時代が進み・技術が発展しても人は食べ物を口にしなければ生きて行けないことから変らぬ普遍の原理だと小生は考えております。
(附記)
2008年2月6日に取り上げた『日本の食と農・危機の本質』で述べられている、日本の農業が時代の変化を追わずやがて乖離し・疲弊して行った過程がいかなるものか、日経ビジネスのWebサイトにてかいつまんで紹介されています。
このままでは日本は食べていけない〜なぜ日本の農業はダメになってしまったのか
NBonline・「『山崎養世の「東奔西走」』」より)
この記事でも、消費者も現状を招いた天秤の片棒担いでいることを示唆しています。消費者も当事者の自覚を持たないといけない。
(さらに追記:2008.5.30)
メモとして、追加。
日本の備蓄米放出の話(「極東ブログ」より)